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143)日本帝国海軍の異文化

 木戸家は、と言っても私の両親は二人とも、もう亡くなってしまいましたが、ずっと海軍贔屓でした。というのも、私の母方の叔父が海軍兵学校を卒業し、海軍士官として艦とともに戦死しているからです。

 海軍の異文化教育は主にこの江田島海軍兵学校(海兵)での海軍士官候補生に対して行われました。語学に関して言うと、海軍は明治時代から英国海軍を手本にしており、ほぼ英語一本に絞っていました。陸軍士官学校(陸士)では、英語とフランス語の二本立てでしたが、太平洋戦争直前の1940年から早々と入試の科目から英語を外しました。しかし、海兵では敗戦直前の1944年まで入試どころか海兵内での英語教育を課し続けました。これは、戦争中に海兵校長であった井上成美の「外国語一つもできないような海軍士官は要らない」という方針があったからです。また、基礎訓練を終え、軍艦に乗り練習航海に出ると、艦内で洋食を食べる時のマナーの練習までしたそうです。アメリカとの関係が悪くなる前は、若い海軍士官の訓練を兼ねて、アメリカ西海岸やオーストラリアへ軍艦で親善訪問することもあったようです。また、山本五十六がそうであったように、海外の日本大使館付武官として駐在する機会も多かったのです。そうした時に、少なくとも英語は理解できないと困りますし、テーブルマナーを含めた社交術も必要になります。なお、大使館付の武官という職は、半分以上軍事スパイとして機能しており、何も海外で物見遊山している訳ではないのです。親善を装い、駐在国の文化、経済、国民性、種々の産業の生産力などのすべてを観察し、まさかの時に日本が軍事的にどう立ち回るのが最善かを極めるのが武官の一番の役目なのです。

 海軍にも陸軍ほどではないにせよ下級兵士に対する暴力的な「指導」がありました。日本海軍にはそのための特別な道具さえあったのです。精神注入棒という棍棒です。艦隊勤務の下士官、特に新兵が何かヘマをやらかすと、そのチームが全員並ばされて、この棍棒で思いっきり尻を殴られるのです。その後数日は仰向きで寝られないほどだったそうです。ヘマをしなくても、上官の気まぐれでこの制裁が行われることもしばしばあったようです。真面目な海軍士官で、この暴力指導を見るのが嫌で艦隊勤務から地上勤務、例えば海軍大学での指導教官を申し出る者もいたとのことです。この海軍の悪しき伝統は、日本独特のものだったのでしょうか。実は、この暴力指導も英国海軍から受け継がれたものだったのです。英国海軍では棍棒ではなく、鞭で新兵を指導したのです。艦隊勤務は、閉じた空間の中で長期間、心身共にすり減らされる作業が続きます。17、18世紀の英国海軍の軍艦内での不満分子の反乱が幾度か起きたのです。それを踏まえて、下士官たちの上官による暴力制裁に対する恐怖で艦内での反乱を予防する伝統が出来上がり、それを我が帝国海軍が明治時代から引き継いだということなのです。昨今「第2の日英同盟」かと囁かれていますが、いろんな意味で日英海軍は繋がっているようです。

 歴史的に世界中の海軍はかなり貴族趣味的なところがあり、海軍士官は紳士、淑女(現在では女性士官も多いのです)でなければならいという掟のようなものがあり、現在でもその名残は残っています。2020年秋に日本で公開された「ミッドウェイ」という映画を観ました。この映画は太平洋戦争前半の日本の破竹の攻勢を止め、日本を敗戦に導くきっかけになったミッドウェイ海戦を描いています。この映画の中で米海軍将校専用のレストランでのシーンがいくつか観られます。まるで三つ星レストランのような豪華さで、ステージまであります。正装したカップルでテーブルは満席です。ステージで当時の人気ジャズ曲を歌手が歌っているシーンもありました。日本でも、海軍には水交社という料亭と旅館を兼ねた海軍専用の施設が、全国の軍港がある都市に存在しました。それらは一流料亭・旅館に引けを取らないものだったそうです。 アメリカ海軍の士官用レストランは、夫婦同伴で訪れることが多いのですが、水交社は男性士官同士で訪れ、綺麗どころが彼らをもてなすということが多かったようです。まあこれも当時の両国の異なった文化だったのでしょうね。

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木戸友幸
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