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国際医療協力

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東京会議

 成田に到着して、そこからすぐ大阪に戻ったわけではありません。東京での会議に2日間にわたって出席しないといけなかったのです。
そのため、外務省は霞ヶ関にある、その名も霞ホテルをとってくれていました。霞ホテルは、こじんまりしたホテルですが、ホテル・オークラがマネジメントを任されており、居心地のいいホテルでした。このホテルは現在はもう存在しませんが、当時は外務省がビジネス用によく利用するホテルだったそうです。

 12月5日の帰国翌日は、外務省で医療団の報告会に出席しました。百人は入る会議室の演壇に外務省のIさんと二人座らされ、1時間あまり報告をしました。この会議では、遠慮することなく思うところを述べてもらってかまわないと言われていました。まずIさんが事実関係を淡々と報告した後、私が発言しました。その中で、 1か月という短い滞在で、多くの時間が東京の外務省本省の決済待ちに使われ、効果的な行動をとれなかったことを述べました。

 翌日6日は、全国の主要病院の病院長を集めての報告会でした。
ここでも、現地の報告を前日と同様にしたのですが、主要な議題は医療隊の三次隊以降の続行が必要かどうか、あるいは医師派遣が可能かどうかでした。医師派遣は非常に難しいという意見が続出しましたが、今回の議論を踏まえ、12月15日に再度会議をして最終決定するということになりました。
12月15日の2回目の会議でも、最終的な医療隊派遣中止の要請の決定はされませんでした。しかし、各病院からは、参加を希望する医師は皆無であるということで、事実上の中止要請といってよい内容でした。

  この2回目の会議の直後に、日本医師会の羽田会長と三島副会長から声をかけられました。日医は日本医療隊派遣には積極的に支援していくつもりで、そのためにサウジアラビアの病院を買い取り、その病院を基点に日本が貢献するという案を示されました。この案は、先遣隊の中でも議論されて、結局、日本人医師が外国人スタッフを使いこなせないという理由で却下されたものでした。私自身は、先遣隊が却下したこの案は実現可能だと思っていました。「リヤドの医療事情」で述べたように、サウジでは外国人スタッフはまったく当たり前で、彼(彼女)らに指示を与える医師が英語をちゃんと理解できて、管理能力がありさえすればいいのです。そういう医師は現在の日本では調達可能なのです。
そのような意見のやり取りをした後で、羽田会長は改めて慰労の会を持ちたいので連絡すると言われました。

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木戸友幸
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