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ブルックリン便り  

 日米医療事情くらべ(3) 
ボタン 告げるべきか、告げざるべきか ボタン

保健同人社「暮らしと健康」1982年7 月号掲載


これまで、医学教育のことや博士号のことなど、日米の優劣が少なくとも、実際的な臨床医学の発展という観点に立てば、割に容易に判断できることを述べてきた。今回は、そう単純にどちらがいいか判断出来ないような問題、患者側の癌の受け取り方についてまず触れてみたい。

自分の最後の生をもう少し威厳をもって送りたいだけなのだ

州立大学病院の内科でインターンをしていた時の話である。大学病院の内科病棟は、癌患者が非常に多く、さながら癌病棟という観があった。
ある晩、私が当直をしていたとき、入院患者が痛みを訴えて、その病室へ呼ばれた。その患者はユダヤ系の老人で、肺癌なのだが、手術はもはや不可能で、これまで何回 か抗癌剤による化学療法を受けている。癌の末期というのは、痛みを伴うことが多いが、彼の場合も例外ではなく、毎晩のように、痛み止めの麻薬の注射を受けていた。彼自身は肺癌であることを、以前から知っており、化学療法についても、使われている薬剤の名前まですべて知っていた。さて、私が病室に入っていき、痛み止めの注射を打ち終えると、彼がしみじみと語るのである。

ー私はこれまでに、何回か種類の違う抗癌剤の治療を受けてきた。その度にその副作用で、食欲も落ちるし、吐き気は起きる。しかし、そのおかげでここまで持ったのだから、ドクターの努力には感謝している。今度また新しい薬を使いたいと言われたのだが、私自身、これ以上入院しているつもりはない。明日にでも退院して、最後の日々を家族と友人で静かに過ごしたいのだ。断っておくが、私は死そのものを少しも恐れ ていない。ただ、自分の最後の生を、もう少し威厳をもって送りたいだけなのだ。こ ういう考えは、アメリカの医師には理解してもらえないが、ドクターは東洋人だから分かってくれるだろうー

それを聴いた時、私はその患者が、間断ない痛みにさいなまれている癌末期にありながら、取り乱すことなく、そのような冷静な判断をしているのに感動した。もちろん、アメリカ人のすべてが、このような冷静な反応を示すわけではないが、少 なくともアメリカ人の大多数は、癌の診断は本人に告げられたほうがいいと考えてお り、告げられた患者は、もちろん動揺はするだろうが、次第に持ち直し、治療のほうに情熱を燃やすようだ。

あと3年あると思うか、あと3年しかないと思うか

ご存知のように、日本では癌を患者本人に告げることは非常に稀である。私自身、大学卒業後3年間、日本で医師として過ごしたが、その間、一度も自分の受け持ち患者 に癌の診断を告げたことはない。
これは、日本の医学界の一種の伝統で、その根拠となっているのは、経験的にみて、日本人でどんなに精神的に強靱にみえる人でも、いったん癌と告げられると、いっぺんに弱ってしまって、結局死期を早めるらしいのである。だから、例え本人が真実を知りたいと言っても、よほどのことがない限り、告げることはまずない。
ノンフィクション作家の柳田邦男の労作である「ガン回廊の朝」に、当時の首相である池田勇人が咽頭癌で、国立がんセンターに入院するくだりがあるが、結局、彼自身 は最後まで、診断を知らされることはなかったのである。少し観点を変えれば、一国の首相でさえ、患者の知る権利は、こと癌に関する限り、存在しないのである。

癌を患者に告げるか否かという問題について、こちらの同僚の医師と議論したことがある。同僚は勿論告げることに賛成の意見で、その根拠は非常に単純明快である。すなわち、ある癌患者の予測される余命があと3年しかないとする。その患者は一生に一度、夫婦でヨーロッパ旅行をしたいと長年願っている。経済的にもぎりぎりの生活 をしているので、もし彼が癌を告げられることがなかったら、旅行に出かける踏ん切 りはつかないで、長年の夢を果たせずじまいで、一生を終えてしまうだろう。どんな人でもその人なりの一生の夢を持っているものである。だから、医師が真実を告げないことによって、間接的にその夢を奪う権利はないというのである。
その時、私はこのように反論したように思う。日本人はアメリカ人に比べ、精神的に非常にナイーブなところがあるので、例えばあと3年の命と告げられたら、恐らくほとんどの患者は、あと3年しかないという風に消極的に受け止め、とてもあと3年あるから元気なうちに念願のヨーロッパ旅行をしようという風にはいかないだろうと。どちらがいいかは、誰にも分からない。しかし一つ言えることは、どちらにせよ、あまり教条的にならないことだ。アメリカ人にもナイーブな人間もいるだろうし、日本人にもどうしても真 実を知る必要のある人もいると思う。例えば、一国の首相などはその範疇に入ると思うのだが。

また、純粋に医学的な見地からみると、最近の癌治療は、外科療法、放射線療法、化学療法、免疫療法と多岐に及んでいて、たいていはこれらの中のいくつかの組み合わせが用いられる。治療が複雑になればなるほど、患者の協力が必要になってくるし、いつまでも、癌以外の病名で隠しおおせるものではない。この点からみると、現在では、むしろ診断を患者が知っているほうが、生存期間は長くなるかもしれない。
以上のような事実を踏まえたうえで、もし読者諸氏が癌になった場合、果たしてどち らの道を望まれるであろうか。ぜひご意見を伺いたいものである。
私自身は、どんなことがあっても癌の診断は知っておきたいと思っている。自分の死を知らずして、どして生に対して責任が持てるかと思うからである。

「そんなかたいことは言わないで」が通用しないアメリカ社会

病院の中で働いているのは、医師と看護婦ばかりではない。特に米国では、分業が盛んであるから、その職種たるやおびただしい数である。検査技師、ソーシャルワーカー 、呼吸治療師、リハビリ治療師、患者を運ぶ人など。日本でも今では、ソーシャルワーカーを除いてたいていの職種が存在するが、最大の違いは、その職種の境界が、日本 ではわりに鷹揚にできているということである。これは、皮肉で言っているのではなくて、私自身は、その鷹揚さを評価しているのである。

こちらの病院は、たいていが救急をとるので、どの職種も24時間体制をとっている。といっても、やはり深夜勤務は人数が非常に少ない。こんな時に救急患者が入院してきて、特殊なレントゲン検査が必要になったとする。深夜は運ぶ人の数が少ないので、 それを待っていたのでは、まず1時間はかかる。かといって、レントゲン技師も、看護婦も、患者を移動させるのは自分の仕事ではないといって、まずやってくれることはない。結局のところ、どんなに忙しくても、インターン自ら、車イスを押して患者 をレントゲン室まで運んで行かなければならない。こんな時、「まあそんな固いこと 言わずに」といった調子で、柔軟に事が運ぶ日本を、どんなに懐かしく思ったことか。 もう一つ日本と大きく異なっている点がある。それは、医師を含めて、こちらの医療 従事者は、かたくななまでに自分の非を認めようとしない。悪く言えば、黒のものを白と言いくるめようとするのである。例えば、医師が指示して、ちゃんとそれを書き残した投薬が明らかに患者に与えられていなかったとしても、看護婦がそれに対し、素直に謝るということはまず考えられない。その時、他に重症患者があって、件の患者にかまっていられなかった云々の言い訳をさんざん聞かされたうえ、アイムソーリーの一言は聞かされずじまいということの方が多い。これは個人の責任というより、むしろアメリカの社会構造からきている一種の文化みたいなものと考えたほうがいいようだ。本質的に契約社会であるアメリカでは、契約が履行されなかった時は、何らかのものを要求するのが当然と考えられている。

いちいち我が非を認めていたら医師はつとまらない

だから、患者が医師に対し訴訟を起すことは日常茶飯事で、医師はそれに備え、年 に200万〜300万円の保険をかけている。医師だけでなく、看護婦、治療師が訴え られることもしばしばあるようだ。こういう社会だから、自然に人々が自分の行為を 正当化するという態度に出るのだろう。しかし、いずれにしても、医療の最大の目的 は、患者の救命、治療ということである。この一大目的からすると、アメリカ式の非常にビジネス・ライクな仕事上での対人関係で、過度に自分を正当化しようとする態度は、いい方向には働かないだろう。それよりはむしろ、日本式の融通の効く柔軟な 対人関係、自分の非は非として認め、次への教訓とするという態度のほうが、ずっとこの目的にかなっていると思う。だから、こういう点に関しては、日本がぜひ「アメ リカナイズ」されないで欲しいと願っているのである。

毛布が足りない病院でもコンピューターだけは完備している


私は毎朝「ニューヨーク・タイムズ」を読むことを日課にしているが、この世界的な一流紙に最近は日本のことが一行も載らないことのほうが珍しいくらいである。日本のことが一番多く載るのは、何といってもビジネス欄である。その中でも、最近、コ ンピューターとか、それを応用した産業ロボットのことが紙上をにぎわしている。特に産業ロボットについては、こちらで非常に関心があるらしく、この1年間だけで少なくとも4〜5回はそのことが話題になっていた。何でも、日本の産業ロボットの総数は、全世界のそれの3分の2を超えているということである。それほどコンピューター 化の進んだわが国に対し、私が疑問を抱いていることが一つある。

どうして日本の病院には、あの便利なコンピューターが取り入れられていないのだろ うか。私がここで言うコンピューターは、何も機械が患者の診断から治療までをやってくれるような代物のことではない。患者のIDナンバーを入れたら、その患者に関する情報、例えば住所、電話番号、これまでの診断名、過去の検査値等が即座に出てく る、そんな種類の機械のことを言っているのだ。

こちらでは、人手不足のせいもあって、毛布の数まで赤字のために不足している市立病院でも、ちゃんとコンピューターだけは完備している。汚い市立病院の病棟で、こ れも薄汚れたコンピューターが使いこなされているのを見ると、数年前に観た「スター ・ウォーズ」という映画を思い出してしまう。あの映画に出てくる宇宙船は、どれも 一部錆が出たような、いかにも長年使い込んだという感じのものであった。

私自身、コンピューターについて大した知識もないが、現在の事務用コンピューターは、どんな人でも簡単に使えるようになっていて、その応用範囲は非常に広い。一度 少し大きな設備投資さえすれば、病院の事務的な能率は、2倍にも3倍にも上がるので、 結局は経済的にも割は会うだろう。それに将来、日本の医師以外の医療従事者の人手不足も、もっと進むことが予想されるので、コンピューター導入には、今以上に積極的になっていいと思う。

つい最近のニューヨーク・タイムズに、日本では、看護婦ロボットも開発されている という記事が出ていた。まあそれも悪くないが、もっと基本的な事務用コンピューターの普及からとりかかるべきではなかろうか。

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木戸友幸
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