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医学教育  

 短期集中連載  もうひとつの米国レジデント物語 第3回

1980年代半ば以降


(医)木戸医院 木戸友幸

Libby Zion事件
 80年半ば以降の米国レジデンシー事情を語るのに,避けては通れない事件がある。
 Libby Zionはニューヨークに住む18歳の女子高校生であった。
1984年のある日,彼女は発熱のためにニューヨークのとある病院の救急治療室を訪れた。彼女は,救急室での待機中に興奮状態に陥ったので,担当レジデントは,その興奮を押さえるためにメペリジンを注射したが,その後,彼女の体温は40度を超え,呼吸停止から死亡してしまったのである。調査の結果,Libbyはメペリジン投与が禁忌とされる,MAO阻害剤であるフェネルジンという抗うつ剤を服用していたことが判明した。治療にあたったレジデントが判断ミスを犯した結果,患者の死を招いてしまったのである。
 このレジデントが判断を下した時,彼は救急室ですでに20時間の労働を続けていた。したがって,判断ミスと過労との関連がこの時点で疑われていた。
 さて,Libbyの父は娘の医療ミスに対し訴訟を起こしたのだが,彼自身,「ニュー ヨーク・タイムズ」紙の記者でもあり,この訴訟を単に一個の医療ミスで終わらせた くなかった。レジデントの長時間勤務が引き起こした構造的な医療ミスであるという主張で,ロビー活動を行なった。裁判では,彼の主張は全面的に認められ,その後, ニューヨーク州では州法により,レジデントの長時間労働を短縮させる措置がとられるようになったのである。

NY州以外の対応
 ニューヨーク州では,悲劇が実際に起き,法律という手段によって,レジデントの待遇が改善されることになった。しかし,80年代後半に入っても,その他の州では依然としてレジデントの労働過剰は改まることはなかった。週80時間労働というのは普通のことで,週100−120時間労働というのもめずらしいことではなかった。
 米国の卒後教育を管轄するAccreditation Council for Graduate Medical Education(ACGME)では,この状態を放置しておくわけにはいかなかった。なぜなら,第2,第3のLibby Zion事件はいつでも,どこででも起こり得るからである。
 ACGMEの提唱したレジデントの労働基準は,週の労働時間が80時間を超えないことや,24時間を超えての連続労働がないことなどである。紆余曲折を経て,このACGMEの基準は2003年7月からの米国のレジデンシーすべてに義務づけられることになった。

レジデントの過労は患者に有害か
 Libby Zion事件をはじめとして,レジデントの過労によって引き起こされたと思われる医療事故は,これまで数多く報告されている。常識的には,徹夜明けのレジデン トが明晰な判断を下せるとは想像しがたいし,誰もそんなレジデントに診察してもらおうとは思わない。しかし,レジデントの過労と判断ミスの間に明確な因果関係を証明することはきわめて困難である。
 ある報告によると,24時間満足な睡眠をとっていない人間の仕事能力は,血中アル コール濃度0.1%の者のそれと同じくらいに劣っているという。この報告を信頼すると,徹夜明けのレジデントの診察は,泥酔した医師の診察とほぼ同じことになる。
 次に,医療以外の業種の労働基準を参考にしてみる。命にかかわる業種ということで,パイロットの労働基準を見ると,週のフライト時間は30時間以下で,フライト間の休息は少なくとも8時間とされている。ACGMEの2003年からの改正基準と比較しても, パイロットのほうが,はるかに多くの休息を要求されている。これらの状況証拠から,レジデントの過労はほぼ確実に患者に害を与えていると言えるであろう。

レジデントの労働条件改善による問題点
 米国の教育病院において,レジデントは公式には教育を受ける立場にいるが,実際は,病院の安価な労働力として利用されていることも事実である。レジデントの年俸が4万2000−5万8000ドルの範囲である。レジデントの労働を補完しうる職種は,Physician's Assistant(PA)とNurse Practitioner(NP)であろうが,その年俸 はPAは6万7000−7万7000ドル,NPは5万3000−9万8000ドルと,レジデントより高給で ある。
 したがって,まず教育病院が経済面で苦境に立たされることは必至である。次に,レジデントの労働時間が減ると,医療体験という教育の量が減ることも事実である。これを,何らかの方法で補う必要が出てくる。

正義の味方,訴えられる
 レジデントの過労の改善を真剣に考えている組織である前述のACGMEは,誰が見ても医学生,レジデントの味方である。しかし,その正義の味方ACGMEが,こともあろ うに医学生から訴えられているのである。その罪状は「反トラスト法(Antitrust Law;註)違反」である。ACGMEは,レジデントを選ぶ際にマッチングを通して選抜を するが,このマッチングが反トラスト法に反しているというのである。マッチングが存在するために,レジデント応募者は複数の病院と直接交渉することができないし,病院側もレジデント応募者をいろんな意味で競わせる必要がない。ここがもっとも反 トラスト法にひっかかるところなのだそうである。
 専門家の意見によると,この訴訟はACGME側が負ける可能性も十分あるそうである。レジデント選抜のためのマッチングは米国では,1952年から半世紀にわたって行なわれている制度である。日本でも2004年からの臨床研修義務化に際しては,この導入が検討されていると聞く。

おわりに
 3回にわたって,「もうひとつの米国レジデント物語」をご紹介してきた。もうひ とつの世界とは,「厳しいが合理的で効率のいい卒後研修」という,米国レジデンシーの表看板に対する裏側の世界である。この裏側の世界には,レジデントの精神・肉体をむしばむさまざまな劣悪な労働条件がある。しかし,何より,命を守ることが使命の医師が,トレーニング課程の身とはいえ,患者に潜在的な害を与えていることが一番重罪といえる部分である。これは,人権を声高に叫ぶ米国社会にあっても,医療の 世界では,患者の視点からではなく,医師の視点からしか医療を考えていなかったということではないだろうか。
 米国のレジデンシーには,このように知られざる裏の部分はあるのだが,彼らはい ざとなればそれを大胆に改革し得るシステムも有している。したがって,こういう裏の部分を含めてもなお,米国のレジデンシーは世界で一番公平で,効率のよい卒後研 修システムであることを強調しておきたい。

註:米国の独占禁止法。巨大企業が市場を独占しようとする行為を規制し,市場の活性化を求めるため,1890年に米国で制定されたシャーマン法を中心とする法律の総称。最近ではマイクロソフト社が本法違反で提訴され,話題を集めた。

参考文献
1)Gaba DM, Howard SK. Fatigue Among Clinicians and The Safety of Patients. NEJM 2002;347:1249−1255
2)Weinstein DF. Duty Hours for Resident Physicians−Tough Choices for Teaching Hospitals. NEJM 2002;347:1275−1278
3)Robins NS. The girl who died twice:every patient's nightmare:the Libby Zion case and the hidden hazards of hospitals. New York:Delacorte Press, 1995
4)Chae SH. Is the Match Illegal? NEJM 2003;348:352−356


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木戸友幸
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