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家庭医療(家庭医療学研究会誌)、9巻1号、29-34、2002年
医療法人木戸医院 木戸友幸


満足度を求めての旅
  筆者は、80年代初頭に米国で家庭医療学(Family Practice)のレジデント研修を受け、その専門医資格を得た。その後、国立病院で家庭医療学の卒後教育に携わった後、開業家庭医としてその実践にあたっている。筆者が医師になって後、1/4世紀でこの家庭医のサイクルが一応は完成したことになる。 この間、自らの中に流れていた思いは「自らの納得いく医療がしたい、同時に納得してもらえる医療がしたい。」ということであった。 この筆者の四半世紀にわたる医師人生のいくつかの転機を、「患者満足度」を切り口 にした考察を加えながら、御紹介したい。

医学生時代
  医学部入学(1971年)当時から、医学部卒業後、米国で内科系のレジデント研修を受 けることを希望していた。そのため、入学当初は、街の英語学校に通って英語の勉強を、また学年が進んでからは、米国留学資格試験に向けての勉強は欠かさなかった。それらの、定型的な勉強とは別に、自己流の「インタビュー術」の勉強にも励んだ。 この非定形勉強法を思い立ったのには、自宅開業医の息子として育った子供時代からの「門前の小僧」としての体験がある。患者との自然な会話による診療の場の雰囲気作りが、臨床医としていかに大切なものかが本能的に分かっていたからである。この勉強のためには、自ら方法論を模索するしか無かった。試行錯誤の結果、もっとも効果的であったのは、単独で酒場を訪れ、その場の雰囲気を短時間で盛り上げる工夫を凝らすという方法である。その場の接客に当たった人間(多くは女性)の好みをすぐさま察知し、会話で和む雰囲気を作り上げるのである。その際、医学生とか医師とかの身分を明かしてしまうと、会話が容易に進み過ぎるので、偽りの職業を名乗る。もっ とも、話題を広げやすかったのは、フリーランスのジャーナリストである。

米国レジデント時代
  1980年(卒後3年目)から厚生省の臨床指導医留学生として、ニューヨーク州立大学の家庭医療学のレジデント研修を3年間受けることが出来た。この留学に際しての情報収集により始めて米国の家庭医療学についての知識を得た。この時に、生物医学的モデルとは異なる臨床医学モデル、即ち、従来の生物医学に心理的ならびに社会的な要素を加えた医学モデルである、家庭医療学を知ることになった。レジデント研修が始まってからは、日本とは比較にならないほど厳しい臨床訓練を受けることにより、 自らの能力の限界を知るという体験もした。1)
能力の限界にまでせまらざるを得ない研修を受け、それを生き延びることが出来ると、そこには大きな自信が生じる。その自信は医師としてのプロフェッショナルな強さにつながる。患者に対する「優しさ」 や「思いやり」が重要なことは言うまでもないが、これらの思いが、医師の強さに裏打ちされたものでなければ、それらの患者への感情は単なる同情になってしまう。もっ とも、医師の患者に対する感情は、医師個人の資質にも大きく左右されるのも確かである。そのため、米国流の厳しい研修が、自信過剰で傲慢な医師、あるいは逆に虚無的な医師を生むこともある。
レジデント研修が後半にさしかかると、各科のフェローと呼ばれる、レジデントを終え、より専門的なトレーニングを受けている医師と行動を共にしながらの研修をする機会がしばしばあった。精神科のフェローと共に、リエゾン精神科の研修を受けていたときのエピソードが、非常に鮮明に記憶に残っている。その時、フォローしていた患者で、すべての治療に不平、不満を漏らし、非常に激しやすい中年女性がいた。こ の患者のカルテを、うっかり患者のベッドの上に忘れてしまうというミスを、その精神科フェローが冒してしまった。患者は、カルテに書かれた自分のネガティブな性格の描写、特に'manipulative'という表現に激高してしまった。精神科フェローは、その時、卑屈に謝罪したり、逃げたりすることなしに、連日、長時間をかけて現在の治療と、その記録の正当性の説明をし続けた。根負けもあったかもしれないが、そのフェ ローの真摯な粘りで、患者は何とか納得してくれた。このエピソードは一つの例に過 ぎないが、米国の医師、特にフェロークラスの若手医師の「逃げない姿勢」は、筆者の帰国後の医師としての生き方に非常に影響を与えた。


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木戸友幸
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