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174)フランス語女性講師の涙
異文化ジョークの一つに「国際会議でもっとも困難なのは、日本人をしゃべらせることと、インド人を黙らせること」というのがあります。今回は、日本人を・・・の方にも関係した話題です。
それは医大を卒業して2年間の卒後研修を終え、米国留学の準備期間として、無給の専攻医として医大に残っていた1980年春のことでした。その夏からアメリカでのレジデント研修が決定していたことは医局にも報告していたので、その時期の数ヶ月間、私にはほとんど何のデューティーもありませんでした。当時、医師国家試験とそれに続く卒後研修や米国留学生試験の準備で手いっぱいで、この数年間フランス語からはまったく離れていました。そこで、はたと思い付いたのは、フランス語講師のストライキで大阪日仏学院の当事者の元フランス語講師が始めた自主講座に参加することでした。(113 「江坂の思い出」)
さて、その時入ったクラスはB1で中級の一番下のクラスでした。講師はフランス人の女性でした。初日に講師と生徒がお互いに自己紹介をしました。講師は日本は初めてで、やはりフランス語教師の夫と共につい最近訪日したとのことでした。彼女はフランス人にしては、やや神経質で、人見知りするタイプのようでした。授業が始まり、講師はフレンドリーな喋り口で、様々な質問を生徒の我々に投げかけるのですが、なにせ初級に少し毛の生えたばかりの我々の語彙力では、進んで質問に答える勇気は出ず、教室はシーンと静まり返りました。蛮勇を奮って私は発言したのですが、短いセンテンスの一言二言で後が続きませんでした。このような調子で授業の最初の30分が過ぎたのです。こういう場面は、医学生時代に大阪日仏学院に通っていた頃にもあったのですが、日本人生徒の引っ込み思案に慣れたベテラン教師ならば、自らが滔々としゃべり始めて授業を続けるのが常でした。ところが、この重圧に耐えられなくなった女性講師は、何とさめざめと泣き始めたのです。我々生徒も、何とかしなければとは思いましたが、彼女を慰めるだけのフランス語能力はなどもちろん誰にもなく、唖然として沈黙しているだけでした。数分間この絶望的な状態が続きましたが、講師の方が気を取り直し、取り乱したことを謝罪して、何とか授業を終えることができました。授業の直後、自然にクラス全員が善後策を検討する集会を開きました。そこで、急遽決めたのは、その週末に講師夫妻を大阪見物に誘うということでした。早速、講師にその事を伝えると、彼女は授業を終え少し落ち着いたようで、快諾してくれました。
土曜の午後に梅田で待ち合わせました。生徒は4〜5人集まりました。梅田の地下街を中心に夫妻を案内し、当時大阪で話題を呼んでいた地下街にあるロココ調の内装の喫茶店に入りました。何しろ日本が初めての二人なので、何を見ても興味深いようで、我々の拙いフランス語の割には、この喫茶店の中でも会話はかなり弾みました。生徒の一人の男性が、元々日本語でもよく喋る人だったようですが、フランス語らしき言語で、長々と喋り続けるのですが、生徒の方は意味不明でポカンとしていました。すると、我々の女性講師が、「彼はフランス語らしき言葉を一生懸命喋ってくれましたが、私にも意味不明です。」と言ったので、皆が大爆笑しました。そんなこんなで、この歓迎会というか、慰安会は成功裡に終わったのです。
私の人生の中で、この以前もこの以後もフランス人で彼女ほどナイーブな性格の人に会ったことはありませんでした。この経験から、さまざまな国の国民性は緩くは存在するが、このケースのような例外もあるので、国民性に囚われ過ぎると偏見になることをこの時学んだ次第です。
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