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24)グローバル化する日本の製薬業界

 この10年ほどで日本の製薬業界のグローバル化が加速度的に進んできています。今回はこの話題について、皆さんに解説してみたいと思います。

 医薬品は治療手段として、世界中で等しく必要とされるものです。また、産業の常識として、製品は大量に安く製造して、大量に売るほど儲けが多く出ます。したがって、製薬業界は元々グローパル化する宿命を持った業界だったと言えるのです。事実、1960年代から1980年代くらいまでは、アメリカとドイツ、スイスを中心とするヨーロッパの製薬業界が、世界中に薬剤を輸出し成功をおさめていました。その頃の日本の製薬業界は、これら海外の大手製薬会社からのパテントを譲り受け、日本国内のみで商売をしていました。それでも、高度成長期の日本では、年々充実してゆく国民皆保険、それに伴う医療機関の増加、それに加え、よりよい医療を求める国民の要望といった諸要因から、十分商売として成り立っていたのです。

  高度成長期に力を付けた日本の他産業と同様、いくつかの製薬会社もこの間に力を蓄え、研究費にもそれなりの額を回し、90年代には、世界にも通用する新薬を数少ないながら開発しました。例えば、三共製薬(当時)のメバロチンやエーザイ製薬のアリセプトなどがそれに相当します。したがって、90年代の日本の製薬業界は、パブルの崩壊があったにも関わらず、比較的安定した、まだまだ右肩上がりの業界だったと言えます。その安定にまず影をさしかけたのが、日米構造会議によりアメリカの製薬業界から指摘された、日本の製薬業界の「不適切な」商行為です。当時普通に行われていた製薬会社の医師に対する接待や、学会活動への金銭援助などがこれに当たります。このため、日本の製薬業界は、まず内なるグローバル化を迫られることになります。

  しかし、このアメリカ製薬業界の正義の味方ぶった主張は、歴史を知る我々の世代(1951年生まれ)からするとオイオイと思ってしまいます。まさか、あの米国製薬会社のUJ(当時)の研究費バラマキ事件を日本人が知らないと思っているのかい?UJは60年代に敗血症性ショックの研究で有名なアメリカの各大学の研究所に莫大な研究費を提供し、自社のステロイド剤、それもその大量投与の有効性を示す結果を得たのです。この結果は米国の学会にも認められ、当時のハリソンの内科教科書に敗血症性ショックの治療法として、それも薬剤名入りで記載されていました。ところが、その10年ほどの後、複数の研究施設で追試が行われ、その結果が覆されたのです。この追試結果は、ハリソン内科書の最大の引用文献であるNew England Journal of Medicineにも掲載され、もちろんハリソン内科書の記載も消えました。これに類した事件は私の知るだけでもいくつかあり、知らないものも含めれば山ほどあったはずです。

  本題に戻ります。アメリカ製薬業界からのイチャモンから余儀なくされた内なるグローパル化は、2000年代に入り、本格的な外に向かったグローバル化を迫られることになります。今回は、先ず、新薬開発の行き詰まりです。新薬の特許は10年ほどで消滅し、その後は他社による後発薬(generic)の発売が解禁になります。そうすると、アメリカではその途端に先発薬のシェアは1割にまで減ってしまいます。日本ではそこまで行かないにしても、最近はすぐに半分にはなります。ですから、各社は10年ごとに売れる新薬を開発しないといけないという宿命を背負っています。しかし、どんなに開発費を注ぎ込んでも、それは無理な話で、2000年代に入り、日本だけでなく世界中の製薬会社が新薬開発に行き詰まっているのです。したがって、少ない手持ちの薬で利益を上げるとなると、世界で売るしか選択肢はありません。
他には、日本での薬市場の飽和があります。日本の処方箋薬市場はアメリカに次いで世界第二位と言われており、また処方の必要な高齢者は増加しています。しかし、他国に比して、製薬会社の数が多く、国内での競争も厳しいのです。これに加え、世界第二位の市場を狙って外資系製薬会社の参入もあります。このため、日本国内市場だけでは、商売として成り立たなくなっています。
これらの理由から、日本の製薬会社はグローバル化が不可欠になっています。

  日本の最大手の武田薬品を例にとり、ケーススタディをしてみましょう。武田薬品は、武田一族の武田國男氏が社長時代の1980年代に、アメリカ進出を果たし、同時に複数の大型新薬開発にも成功します。2000年ころから前立腺癌薬のリュープリン、糖尿病薬のアクトス、これらは、アメリカでかなりの利益を上げました。胃薬のタケプロンと降圧剤のプロプレスは、アメリカではそこそこでしたが、国内ではかなりの売り上げを記録しました。しかし、それらの特許切れが20010頃に始まり、それを補うような強力な新薬はまだ視野に入らないという状態が続きました。
 このことに危機感を抱いた経営陣は、2011年にスイスの製薬会社であるナイコメッドを1兆円の価格で買収しました。この買収価格があまりにも高価であるとの理由で、武田株が一時的に下落したほどです。ナイコメッドは東欧市場に強く、武田は東欧で後発医薬品を含めた武田製品の販売を飛躍的に増加させる目的があるのです。買収以後の業界の世界的な動きをみると、買収価格が適正かどうかは別にして、この買収は適正な動きのように思えます。しかし、この大型買収に関連して、もう一つの問題が生じました。買収後の急速なグローバル化により、武田の社員の非日本人の割合が何と50%を超えたのです。また、ヨーロッパでの営業を仕切れる経営人材がいないということで、次期CEOには、製薬業界でグローパル経営の経験豊かなフランス人が内定しています。私が1990年代半ばにパリで医療をしていたとき、武田のヨーロッパ担当の赴任社員はたったの数人だったのです。したがって、この決断も適正というより、不可避なものであると言わざるを得ません。

 日本の他の大手も、イスラエルやインドの大手後発品メーカーと合弁したり、買収したりして、何とか次の新薬の開発の目処がつくまでの延命を計っています。また国内大手同士の合併もこの10年で目立ってきています。それと同時にグローパル化を進めていることはもちろんです。

 このように、日本の製薬業界のグローバル化は、これからもどんどん進むことは間違いないと思います。この時、社内での異文化交流、販売先での異文化交流を上手に処理していかないと、会社としての成功は望めません。そこで生きてくるのが、異文化コミュニケーション術なのです。

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木戸友幸
mail:kidot@momo.so-net.ne.jp