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国際医療協力

ボタン湾岸戦争後の中東諸国への医療支援をめぐってボタン

国際看護、1991年4月10日掲載


派遣経験者として感じた数々の行き違い


1)はじめに ペルシャ湾岸危機は一応の終結をみたが、その戦後処理は困難を極めると予想されている。筆者が医療団に加わったのは1990年11月の開戦前のことであり、状況はまったく今と相違していた。しかし、この体験が、日本の湾岸戦後における協力あるいは将来における同種の問題において何らかの参考になればと思い筆をとった。

2)医療団派遣政府の百人規模の医療団派遣の発表を受けて、1990年9月に14人の日本医療団先遣隊 がサウジアラビアへ派遣された。先遣隊の任務はサウジ東部での活動拠点の設定であったが、この交渉の時点で東部保険省の真の要求は`人`ではなく、救急車、移動病院等の`物`であることが判明した。
11月に入り、筆者と外科医の2名が二次隊としてサウジアラビアへ派遣された。着任後直ちにアルコバルに赴き、東部保険省で先遣隊との合意事項の確認をとろうと試みた。しかし、事務レベルで進行しつつあった機材供与の交渉過程が東部州に全く報告されておらず、東部州保健省代表者はかなり感情的になっており、診療所開設の建設的な話し合いには至らなかった。診療所はサウジアラビアの規格に適合した24時間体制のもので、日本から派遣の医師、看護婦も最低6カ月の滞在を要するという相手側の要求であった。この会談の後、リヤド保健省次官との会談と連日の外務省本省との交渉により診療所開設に向けての努力を続けたが、筆者のサウジ滞在中には事態の本質的な進展はみられなかった。

3)今回の医療団派遣の問題点と今後への提言 まず第一に平時のサウジアラビアに特別な医療需要がないということは、現地の日本 大使館医務官の調査でも明らかであり、この旨、東京へ連絡していたという。したがって政府のサウジへの医療団派遣発言は現地情報を無視して行われたといってよいであろう。相手側の欲しない`人`を売り込む困難な交渉に輪をかけたのが、現地の大使館に交渉の決定権がないことである。東京の指示を数日待っている間にまた次の問題が持ち上がり、収拾がつかなくなるということがよくあった。また医療団に所属 するプロの外交官が二名というのも機動力のなさにつながった。
 これら上に述べたことが、例えすべてもう少しましな方向で進んでいたとしても、チームあたり数人の医療チーム(百人規模というのは総計での数字である)でできるこ とは限られている。そうであるならあならば、全世界の人々にもっとアピールするような方法論をもっと練るべきであろう。一例を挙げれば、もっと早い時期にヨルダンの難民キャンプに医療チームと共に大量の食料、水、医薬品を送っていたらどうだっただろうか。これは結果を述べているのではなく、昨年8月の時点で当院の有志のグループで実際にもっとも支持された案である。民間の宣伝を業とする企業ならもっとすばらしいアイデアを出してくれるかも知れない。外務省にそのあたりの発想の転換を望みたい。
 湾岸戦後には、今のところ大規模な医療支援の需要はなさそうである。しかし、国際機関と連絡を密にしながら、今度は迅速かつ効果的な支援にしたいものである。最後に、今回の事件を通して、われされ医療に携わる者のもう少し能動的かつ建設的な意思表示があったもよかったのではと感じた。(国立大阪病院医師) この文章の後に編集部による以下の文章が掲載されています。



編集者コメント

 湾岸戦争後についての意見募集の結果に思う前月号で`湾岸戦争後の医療支援`について読者の意見を募集した。残念ながら期待に反して一通の声も自発的には寄せられなかった。ここに記載した意見は当紙編集部で依頼したものばかりである。依頼は、**、木戸両先生以外に政治家、外務省、厚生省、国際協力事業団などの関係者にも主旨を説明してお願いしたが、すべて、`今は微妙な時期だから`という理由で断られた。そうした公的な立場の人たちの発言が影響力が大きいとして辞退されるのはわからないでもない。しかし、一万部発行している本紙の看護職の読者がどうして声を発することができなかったのであろう。湾岸戦争が始まってから、わが国の貢献策が社会的に大きな話題になったことは国民の多くが知っている。`お金は出したが人は出さない`という批判の中で、後方支援 の内容について大きくゆれたことも。その中には医療という領域がいつも顔をのぞかせていた。
 戦争が終わって私たちは今後の国際社会でどんな役割を果たしていけばよいのか、それぞれが宿題を投げかけられたのではと思い、敢て読者の声を求めることを企画したのである。しかしその期待は崩れた。 その理由は何なのだろうか。

1)日々が忙しくて意見はあるが書く暇がなかった。
2)自分の仕事と関係がない(無関心)。
3)政治家や国のレベルで考えることであり、個人の意見など述べてもどうなるものでもない。
4)募集の事実は知っていたが、自分の意見がまとまらなかった。
5)自分なりの考えはあるが、発表する勇気がなかった。
6)たとえ意見を述べてみても所詮は日本は国際的な活動を主体的にできない(あきらめ)。以上のほかにもいろいろと推測はできる。しかし、いま、この紙上で今回の現状について分析することは控えたい。この`何のリアクションもなかった`という事実のみお知らせし読者への悲しい報告とさせていただく。

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木戸友幸
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