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国際医療協力

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プロローグ
 皆さんは1990年のペルシャ湾岸危機とそれに引き続き翌91年1月に勃発した湾岸戦争を覚えてらっしゃいますか? これは米ソ冷戦の時代が過ぎ、ポスト冷戦時代と呼ばれる時代になって初めて全世界を震撼させた大事件でした。この時に日本政府のとった処置は結果的には、ジャーナリストの手嶋龍一氏による「130億ドルは砂に消えた。」という比喩通り、国際社会からの黙殺と冷笑にあってしまいました。

 私は当時、国立大阪病院の内科医員であり、ひょんなことから湾岸危機日本医療隊のチームリーダーとして、サウジアラビアの首都リヤドに派遣されたのです。この医療隊の派遣にまつわる様々な議論を基にして、現在の自衛隊の国際協力が可能になったのです。今回、当時の当事者のみが知る「秘話」を明らかにすることにより、これからも国際化社会で生き延びざるを得ない我が日本国のための建設的な議論の材料にしていただこうと思った次第です。

 1990年8月2日未明、クウェート国境に展開する総勢12万人のイラク軍部隊は、クウェート領内に侵攻し、瞬く間にこれを制圧してしまいました。これが世に言う湾岸危機です。この危機に真っ先に反応したのが、アメリカ合衆国です。ソ連が当時国家として風前の灯の状態であったということもあり、世界唯一の超大国となり、湾岸地域の石油にも大きく依存しているアメリカとしては当然のことです。アメリカの次に反応が大きかったのは、イラクと国境を接し、クウェートに続きイラクの侵攻が予想されていたサウジアラビアです。アメリカとサウジとの利害は一致し、大量のアメリカ軍がサウジに駐留することになります。そのための巨大な戦費をどうするかが問題となりました。アメリカに国土を守ってもらう立場のサウジアラビアは、その莫大な戦費に不安を感じ、応分の負担を世界第二の経済大国、日本に求めました。もちろんアメリカも日本に経済的負担を期待したのですが、アメリカの場合はそれだけではありませんでした。
90年11月に元帝国陸軍参謀、瀬島龍三氏が密使としてワシントンを訪問し、国家安全保障担当大統領補佐官、ブレント・スコウクラフトと会談しました。その会談でスコウクラフトが瀬島に伝えたのは、「金を出す。汗を流す。血を流す。我々にはこの三つの選択肢がある。」ということでした。即ち、資金的援助、人的貢献、それに軍事的貢献の中からの選択ということです。

 日本政府はこの時点に至るまでに、得られた情報から、自らも石油資源の多くを頼る地域での大事件であることからも、軍事貢献を除く後の2点、即ち資金と人的な貢献は必須と考え、積極的に努力を続けていました。しかし、如何せんこれまでの経験も無く、時間も無いということで、まったく結果は出せなかったのです。具体的には、日本船籍の船舶での後方輸送支援は船員組合の反対等で頓挫しました。また、人的貢献が可能な唯一の訓練された組織である自衛隊を国際平和協力隊と名を変えて紛争地に送り込むための国際平和協力法も、成立させることが出来ませんでした。海部首相が最後に半ばやけっぱちで出した案が「100人規模の医療隊」を送り込むというものでした。この案に対しても、これまで海外での医療貢献に実績のある団体はすべて参加拒否の立場をとったのです。そのため、苦肉の策として国立大学医学部や国立病院を中心に選抜された17人の先遣隊が秋にサウジアラビアに派遣されたのです。

参考文献:手嶋龍一著「外交敗戦ー130億ドルは砂に消えた」新潮文庫

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木戸友幸
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