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国際医療協力

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出発まで
 1990年9月末に、当時私が勤務していた国立大阪病院(現国立病院機構大阪医療センター)に湾岸危機医療隊に参加の意志を尋ねるアンケート調査票が配布されました。私は内科に所属していましたが、内科では部長を含め全員が参加の意志ありと答えたように思います。後で分かったことですが、先遣隊の隊長を寺本院長が務めた国立長崎中央病院は例外として、参加意志を明かにした国立病院医師は極めて少数であったそうです。よく言えば「ノリがいい」、悪く言えば「おっちょこちょい」な関西人の特徴をよく示しています。

  それでも全国で何百人かの国立病院医師が参加意志を示したはずで、まさかこの私が指名を受けるとは思っていませんでした。10月の初めのある日、院長から呼び出しがありました。「木戸君、湾岸危機の日本医療隊への参加の要請が来たよ。」と院長室に入るなり言われました。私としても、単なるノリで参加意志を示したわけではありません。これまでの米国での研修体験や、国家公務員としての義務などを踏まえてのことでした。したがって、戸惑いながらも要請を受けました。

 その翌日から私の日常はがらっと変わりました。先ず、いつ出発してもいいように入院の受け持ち患者はすべて外され、外来診療のみとなりました。それで暇ということもあったのですが、語学学校のベルリッツに話をつけて、アラビア語の基礎講座にも通いました。大阪人らしく、国のために行くんだから授業料を少しまけてくれと交渉しましたが、これには応じてもらえませんでした。
現地事情の情報収集や、何かあったときのためのバックアップのための協力員も積極的に探しました。これまでの私の人脈を総動員したらかなりの人が集まりました。厚生省の中堅官僚、JALのキャリアーの中堅どころ、NHKのキャリアー社員等々。情報の管理と伝達は大阪病院の同僚の放射線科M医師と小児科K医師が引き受けてくれました。

 10月11日に病院の有志が壮行会をやってくれました。何故有志ということになったかというと、院長を含めた病院幹部が、「日本の湾岸危機での米国への協力に賛成ではない世論もある」とのことで、病院としては表立った行事はしないということだったのです。しかし、国の依頼で国家公務員が外地に向かうのに何をそんなに遠慮がいるんでしょうね。ちなみに大阪病院のすぐ近所の国立循環器病センターからも一人医師が出るということになり、循環器病センターでは、院長、副院長出席で早々と壮行会を行っていました。ところが、我が病院の有志壮行会の最中に厚生省からの連絡が入り、計画の一部変更があるので、派遣の話はペンディングとなってしまいました。なんとも格好のつかない壮行会になってしまったのです。結局、私は最終的に行くことになったのですが、循環器病センターの医師の派遣は取り止めになりました。

 11月3日が出発ということが決まりました。その前に外務省で研修があるので、10月30日から東京で宿泊することになりました。外務省の研修が始まると身分は厚生技官から外務技官に変わるのです。そこで省庁間のややこしい問題があり、事務処理がお粗末でした。例えば、東京でのホテルを予約するのは厚生省のはずなのですが、予約されていませんでした。厚生省の担当にその旨を連絡すると、予約してくれたホテルは池袋のみすぼらしいビジネスホテルで、しかも鍵が壊れていました。戦地に向かう公務員をこんなホテルに泊めるのかとさすがに頭に血がのぼり、自ら勝手に予約を入れ赤坂のニューオータニに移りました。厚生省には一方的に「池袋の鍵の壊れたビジネスホテルはないでしょう。ニューオータニに移りましたから支払いよろしく。」と電話で一方的にまくしたて、相手の返事を待たずに切りました。やはりこちらの感情もかなり高ぶっていたのです。

 10月31日は厚生省の挨拶周りをしました。このプロジェクトの厚生省での直属上司は寺松保険医療局長ですが、各部署の挨拶回りの最後に寺松局長の部屋に呼ばれました。「君とチームを組む医師は君より年下の外科医だ。だから君はチームのリーダーの自覚を持ってほしい。しかし、間違っても何か英雄的なことをやろうなどとは思わないで欲しい。
君たちは戦地での訓練など何も受けていない普通の医師なんだ。政治家を含め、そんなことは誰もが分かっている。だから、君はリーダーとして、他のメンバーの血気はやる行動も押さえて欲しいのだ。僕が望むのは、君たちが全員無事に帰国することだけだよ。」といった意味の訓示をくれました。

 11月1日は外務省で研修がありました。外務省職員の心得や、現地の事情の講義なのですが、まあ可もなし不可もなしといったものでした。講義には講師の他に外務省入省して間もない新人が前で一人我々に向かって座ってメモをとっているのです。先遣隊隊長の長崎中央病院の寺本院長が講師で来た時に、開口一番「そこの若いの、外務省の連中はどうして、そんな監視のようなまねをするんだ。我々多省から来た人間がそんなに信用ならないのか!」と怒鳴ったのには、ちょっと驚きましたが、心の中で拍手したことも事実です。

  11月2日の出発前日は、午前中に担当大臣である津島厚生大臣と中山外務大臣に各々の大臣室まで挨拶に行きました。この時はテレビカメラも大臣室入室直前まで付いてきて、ニュースにも流れたらしく後で いろんな人から連絡をもらいました。両大臣とも非常に気さくな人で、特に中山外務大臣は次男が医師で、しかも国立大阪病院で私が指導した研修医であったので、話が弾みました。

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木戸友幸
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