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国際医療協力

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苦難の幕開け

 我々医療団は、厚生省の寺松局長の言葉にもあったように、積極的には何もせず、ただ日本国のプレゼンスを示すだけに派遣されたのです。事前情報でも、1990年末の時期にはサウジアラビアには大きな医療需要はないとのことでした。しかし、チームとして来ているわけですからまったく何もしないわけにはいきません。第一、我々勤勉日本人にとって何もしないというのはかなり苦痛なことなのです。

 日本大使館の会議室での最初の会議で決まったことは、先遣隊が日本医療隊のために確保したサウジ東部のアルコバルにある建物を視察し、それと同時にリヤドよりイラク国境に近い東部の保健省責任者と会談して、日本医療隊に対する要望を聴こうということでした。

 11月7日の早朝、医療隊付きの外交官2人とK医師と私の4人が空路アルコバルに向かいました。飛行機の窓からみえるサウジの国土は、灌漑の行き届いた都会とはまったく印象の異なるものでした。
緑がまったくない土と砂の世界で、やはりここは厳しい砂漠の国であることを改めて実感しました。

 アルコバルに到着して、すぐに東部地区保健省に向かいました。我々の相手をしてくれたのは、保健省の高官二人でした。医療隊の外交官二人は先遣隊の訪問時に保健省高官と面識があったので、まず我々医師二人を彼等に紹介してくれました。次に、先遣隊が計画した診療所の開設準備が遅れている(実はまだ何も手を付けていない。)ことを報告しました。この時点で、会談の主導は完全にサウジ側がとっていました。保健省高官二人はあからさまに日本側の落ち度を責め、その場の雰囲気は陰うつなものになりました。
 こうなったときのために、一応こちらの対応を考えてありました。診療所開設の準備が整うまでの間、リヤドで日本とサウジ間の医療技術交流を行おうという提案を出しました。これが意外に高官の興味を引き、そ の場の雰囲気がかなり回復しました。しかし、相手も交渉にかけては強者でした。「我々サウジ側は、もともと医療に困っていたわけではなく、そのことは伝えていたはずだ。それでも援助するというなら、我々に不足している医療インフラ、特に救急車とその通信機器をそれなりの数で援助してもらおうではないか。」と会談の最後に、それがあたかも彼等の当然の権利のように言い放ちました。

  翌日、我々は診療所用として確保してあった建物を視察しました。市街地から少し離れたところにある、一軒家でしたが、戦端が開かれたときに、診療所として機能するためには立地も悪いし、面積も狭すぎるように思えました。

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木戸友幸
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