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医海時報 S. 55. (1980) 10. 21

Family Practice Center
 本年夏から、私は厚生省の臨床指導医海外留学生として、アメリカ、ブルックリンにあるダウンステートメデイカルセンターにおいて、3年間の予定で、Family Practiceのレジデントを行うことになった。この機会を利用して、現在日本でも話題になってきているプライマリ、ケアあるいは家庭医学といったもののアメリカでの現状を、読者の方々にお知らせしていきたいと思う。
 ダウンステートメデイカルセンターの立地するブルックリンは、ニューヨーク市五区のうちでも面積、人口共に一番多く、あの摩天楼群で有名なマンハッタンの南西にあたり、地下鉄で30分である。その住民は黒人が多く、特にメデイカルセンターの周辺は、ジャマイカ、プエルトリコ、ハイチなどからの移民が多い。したがって住民の生活は貧しく、衛生状態も比較的悪い。私は、7月31日にブルックリンに到着したが、レジデントの教育プログラムのDirectorであるDr.Sadovskyの計らいにより、8月末まではFamily Practice Center で、外来のみを診るということになった。これは、この間に英語や処方のやり方や、患者との接し方など、これからの訓練の基本になることを、出来るだけ無理のない方法で身につけさせようというDirectorの配慮からでたものである。Family Practice Center というのは、このメデイカルセンターの外来棟の一画にあり、10の独立した診察室から成っている。各部屋には、充電式の耳鏡、眼底鏡のセットが壁かけ式に備え付けてあり、診察台は婦人科内診まで出来るようになっている。診察室とは別に治療室があり、ここでは小膿瘍の切開などの小手術、あるいは直腸鏡検査などが出来る。
 また、Family Practice Center専用の検査室では検尿、血算、グラム染色などが、診察中にテクニシャンによって行われる。

一日、五人くらい
 一年目のレジデントが診る外来患者は、一日五人ぐらいまでである。いったん自分が診察した患者は、これからの三年間、ずっと自分が担当し、その家族も把握して、もし病気あるいはその他のいわゆる悩みごとがあったら、それに応じなければならない。ここまでは、日本の病院の外来と本質的な差はないと思うが、一番の違いは患者の性別、年令を問わないというところである。即ち、内科、小児科、婦人科、小外科を総て引受け、特殊な疾患を除くcommon diseaseは最後まで責任を持つ。入院させた患者については、その病棟の担当医師と共に患者を診ていく。
 一日外来五人と書いたが、最初のうちは新患の割合が多いし、慣れないこともあって、殆ど全ての患者についてAttending(指導医)に相談するから、四ー五人でも決して少な過ぎるという感じはない。Attendingでも診ている患者数はせいぜい日に十数人である。日本の病院の外来の数の多さを思うと、うらやましい限りである。
  ここで、私のある日のセンターでの午前中の生活を紹介する。いつもの通り九時にセンターに入り、コーヒーを飲んでいると、電話が鳴る。二十歳、黒人女性で、右下腹部が朝から痛んでいるという。チャートを出してもらうと、三カ月前に膣炎でこのセンターにかかっている。虫垂炎か、膣炎か、付属器炎か、いずれにしても診察が必要なので、すぐに来るように言う。historyでは、先行する心窩部痛もないし、腹部の診察でも右下腹部に圧痛はあるものの柔らかい。
 そこで二年目のレジデントに付いてもらって、恐る恐るvaginal examinationを行うと、右側に腹壁からよりもはるかに強い圧痛を訴える。vaginal dischargeのグラム染色をテクニシャンに頼むと、見事なグラム陰性双球菌が見られた。この例のように外来専用の検査室でグラム染色まで即座に出来るのは、時には非常に役立つ。 一人目に手間取っていると、看護婦がやって来て、Dr.某(Attendinngの一人)の予約患者が一時間待っているのにそのドクターが現れないので、すごい剣幕で怒っているから代わりに診てくれと言う。怒り狂った中年女性とは、今の私の英語力ではちょっと太刀打ちしかねると思ったが、しかたなしに引き受ける。チャートを先に開いて見ると、51歳、黒人女性で、ジャマイカ出身。息子が一人いるが、彼女は未婚である。そして、胸痛、頭痛など来院の度に主訴が変わっている。チャートを読んでいるうちに、件のAttendingがやっとどこかから戻ってきて、自分が診るから横でこういう患者の診方を観察しておけというので、胸をなで下ろした。
 なるほど、患者はかなり興奮しており、待合室で長くまたされたことや、コンピューターに間違いがあって、自分のチャートがなかなか出なかったことなどをまくしたてる。最初、そのドクターはじっと患者の言うことを聞いていたが、おもむろに、あなたは以前、私が教えた深呼吸法を怒り出す前に試してみましたか?とたずねる。患者ははっと何かを思い出したらしく、急におとなしくなって、少し試そうと思ったけれど、怒り出してからはそんなことは忘れてしまった。と答える。
 それからはその女性に、トランキライザー等の薬より、怒り発作の前の深呼吸法の方が、よっぽど効果のあるということや、彼女の息子の状態(息子はてんかん持ちらしい)などを、噛んで含めるように話した後、彼女の本日の主訴であるvertigoについての診察を行なった。この間、約40分である。診察後、そのドクターは日本でも中年女性で主訴の多いのはあるかとたずねるので、よく見かけるけれど、とてもあんなに時間はかけてられないと答えると、笑いながら、自分もいつもならあれ程ていねいにはしないと言っていた。彼の言うところによると、未婚の母はジャマイカでは道徳的に認められておらず、とりわけ彼女の息子にはてんかんがある。ジャマイカ人は大変信心深いので、彼女はそれが神の与えた罰だと信じているのだそうだ。だから、いつも何らかの心理的な圧迫があって、種々の症状を引き起こし、時々は怒り発作となって爆発するということらしい。
 一つ蛇足ながら付け加えると、事はここに書いたようにスムースに進んだわけでは決してない。この日の午前中だけでも5〜6回は、意志疎通がうまくいかず、脂汗が流れるような思いをしているのである。

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木戸友幸
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