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ブルックリン便り  

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1983年9月 東淀川区医師会雑誌掲載

マンハッタンの病床で考えたこと
 あれは忘れもしない、1982年のクリスマスイブの午前11時のことであった。ハウストン通りという、ダウンタウンマンハッタンの交通量の多い通りの交差点で、私の運転する車が、信号無視の車に左側より激突されたのである。30分くらいは意識を失っていたであろうか。到着した救急隊員が私を車から救出しようといている物音で意識が戻った。救急車に移されてからも、しばらく何が起こったか分からなかったが、いろいろ事故について質問されているうちに、やっと記憶が戻ってきた。このとき自分でも不思議なほど冷静に頭が働き、英語もスムーズに出てきた。
当時、すでにブルックリンの病院で2年半勤務していたので、当然といえば当然かも知れない。そこで忘れずに言ったのことは、自分はダウンテイトメデイカルセンターでファミリープラクテイスのチーフレジデントをしているドクター木戸であるが、救急病院に到着すれば必ずそのように紹介してくれ、ということであった。

 事故現場から十数町南のニューヨーク市庁舎の近くのビークマン病院に到着したのが12時前である。したがって、事故発生から1時間以内で救急病院に運ばれているわけだから、まずまず迅速といっていいだろう。しかしニューヨークの病院の救急室の常として、下手をすると、ここから実際に医者に診察を受けるまでの時間の方が長いこ とがある。そのために、自分が医者であることを強調しておいたのだ。やはり米国でも、医者の仲間意識は強く、Doctor's Courtesyといって、同じ病院で働く医師やそ の家族の治療費は請求しなかったり、他の病院にかつぎこまれてもやはり特別扱いさ れるのだ。
私の場合もすぐに当直のレジデント(研修医)が診察し、胸部X線をオーダーした。その結果、左の肋骨が6本骨折しており、血気胸(胸膜が破れ出血もして いる)に陥っていることが判明した。道理で痛みと同時に息苦しかったわけだ。救急室でただちにチェストチューブ(胸に通す管)が挿入され、外科の集中治療室(ICU )に入院させられた。この間、約1時間である。
したがってICUのベッドで、ナースに You are going to celebrate Christmas with us, aren't you?(私たちと一緒にク リスマスを祝うのよね?)と迎えられたのは、事故発生2時間後の午後1時頃だった。 6本の肋骨骨折に血気胸となれば、重症には違いないのだが、ギブスはおろか、包帯すら必要ないし、治療はチェストチューブからの持続吸引と鎮痛剤のみである。

なにしろ、私自身、この時に至るまで病気らしい病気、怪我らしい怪我をしたことがなかったので、骨折の痛みがあんなにひどいとは思いもよらなかった。肋骨はいつも呼吸と共に動いているので、大袈裟に言えば、呼吸の度に激痛が走るのである。
したがっ て、外科ICUにいた丸2日間は、麻薬であるデメロールを4時間毎に筋肉注射してもらっていた。このデメロールを含め、米国では鎮痛剤として麻薬を比較的、自由に使用 する。もちろんこれらは、金庫に保管してあって、特別の麻薬処方が必要である。こ れに反し、日本で麻薬を使うのは、心筋梗塞あるいは悪性腫瘍の末期くらいではなかろうか。自らの体験からすると、骨折や手術後の激痛には、日本でももっと麻薬を使用していいのではないかと思う。鎮痛作用とその作用を倍増させる多幸感は、非麻薬系の鎮痛剤に比して、格段の差がある。それに数日間、4〜6時間毎に注射したとして も、もともとの中毒者でなければ、絶対に中毒などにはならない。

 さて翌日、私がレジデントをしていた病院のボスが、私の入院したビークマン病院に電話を入れてくれて、そこの外科部長に私の主治医になるようにはからってくれた。外科は手術があるので、手術の上手な主治医を持つことが、患者にとっては大切なことだ。しかし、私の場合、手術には関係がなかったので、外科部長の主治医は安心料のようなものであった。実際、その外科部長のしてくれたことは、1日1回の回診と、 時に一言二言言葉を交わし、握手をしてくれたことだけだった。チェストチューブを 挿入したり抜去したりする雑用は、すべてレジデントがやってくれる。数分間の会話と握手で、1日100ドルの収入は悪くないなと思ったりした。
一般外科病棟に移って、チェストチューブもとれ、少し歩けるようになり、ナースたちとも親しくなってきた。ニューヨークの病院には外国人医師も多いが、ナースも外国人が多い。特にフィリピン人とタイ人が多いようだ。彼女らは私がドクターであることもあるが、やはり同じ東洋人であることの親しみからか、非常に親切にしてくれた。彼女らのほとんどの者は、国に残した家族のために仕送りをしているので、現在の職場を絶対手放したくないという、せっぱつまった気持ちがある。したがって職務には、きわめて忠実な働き者ぞろいで、ドクターには重宝がられている。患者当たりも、アメリカ人ナースと比較してずっとソフトで好評である。
 以前、日本でも公開さ れたアメリカ映画で、ジャックニコルソン主演の`カッコーの巣の上で`という精神病院のことを描いたものがあったが、あの中で一人、それこそ看護婦の鏡のような東洋人のナースが登場したのを覚えていらっしゃるだろうか。彼女は原作では、日本人 という設定なのであるが、御存知だっただろうか。
 さて、患者として始めて、それも異国で入院したことにより、それまで観念的にしか分からなかった患者へのさりげない思いやりがいかに大切かが実感された。今回のこ とは、災難には違いないが、これからの私の臨床医としての生活のために、このうえもなく貴重な体験になったと思う。 1982年の大みそかは、このような感慨と、三波春夫の`ちゃんちきおけさ`の懐かしいメロデイーと共に暮れていった。(マンハッタンの日本語放送テレビ局では、毎年暮れに紅白歌合戦を放映する。) 因みにこの時の入院期間はちょうど2週間であった。

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木戸友幸
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