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ブルックリン便り  

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苦学生たち

苦学生なんてもう日本語では死語に近いですが、僕がブルックリンで遭遇した研修医達には、この言葉がふさわしい人たちが何人かいました。(研修医は学生ではないのですが、とりあえずこう呼ばせてもらいます。)

内科研修医のデイヴィッドはユダヤ系ウルグアイ人として、南米ウルグアイで産まれ、その地で初等教育を受けました。でも大学医学部は、ウルグアイでは適当な所がないということで、イスラエルの大学に入学したのです。イスラエルの国語はヘブライ語 ですから、もちろんヘブライ語を勉強してから入学したのです。そこを卒業の後、アメリカの卒後研修(レジデンシー)に応募し採用されたのです。ですから、デイヴィッ ドは、スペイン語とヘブライ語それに英語が自由に喋れます。 でも、彼の病棟での評判は最悪でした。ナースからも医学生からさえも嫌われていました。何しろ要領が良すぎるのです。余計(と彼が判断したこと)なことは一切しません。ということで、デイヴィッドは2年目は病院の契約を切られ、どこか他の病院に移りました。でも、彼ならどこでも生き延びていけたはずです。

ホゼは小柄だけれど褐色で精悍な顔をしたプエルトリコ出身の男です。彼の卒業校はハーバードなのです。それを聞くと、皆が「オー!」と感嘆します。そう口に出して言わなくとも、そういう表情になります。その当時、全米の医学校で、マイノリティー枠というのが決められており、ある一定の割合の少数民族を絶対入学させなければならない仕組みになっていたのです。といっても、名にし負うハーバードに入学するためには、かなり辛い勉学に耐えたに違いありません。ホゼの場合は、勉学よりも貧困の方が辛かったといいます。学費は教育ローンがあるので、少なくとも在学中は大丈夫でした。でも、家族のためいろいろバイトも必要なようでした。彼は家族を支えるためのバイトのために、回診に遅刻したり、あるいは無断欠勤したりすることが時々ありました。彼は僕がチーフ・レジデントをしていた時の1年目レジデントだったのです。ですから、そういう事件があるといつも僕にまず連絡が来たのです。僕はホゼの家庭の事情を知っていたので、出来るだけ事を荒立てないような処理をしました。するとホゼの方でもそれを察してくれて、その都度、僕に感謝の意を表してくれまし た。

マリアはソ連から移住した、いわゆるロシア系ユダヤ人です。彼女はその当時もう40代で、ソ連では小児科医として開業していました。でも、アメリカで小児科医として開業するには、小児科の研修を3年間受けて、その専門医試験を受けないといけないのです。彼女は英語はあまり得意ではなく、またソ連の医療レベルもあまり高くないので、彼女にとってアメリカでの研修はかなり厳しいようでした。仲間の研修医にも 疎んじられているし、ある上級研修医などは、彼女と当直が一緒だと分かるの" Oh no, on call with you, Maria! "と露骨に嫌な顔をしました。しかし、彼女はそういった仕打ちにも、いつも明るい笑顔で耐えていました。そんな彼女も、ある症例検討会の時に皆の注目を集めたことが一度だけありました。小児の伝染性単核症の症例だったのですが、指導医が入院で安静が必要な理由を尋ねたときに彼女が真っ先に答えま した。「肝臓と脾臓の破裂を予防するためです。」ロシア(当時はソ連)では、この 疾患で、腹部の打撲による小児の肝脾破裂が非常に多いのだそうです。

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木戸友幸
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