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ブルックリン便り  

ボタン パリ、アメリカ病院便り(6) ボタン

6)コミュニケーションについて

  海外の医療機関で臨床をする場合、言葉の問題は避けて通れない。今回のアメリカ病院のケースは患者の大半は同胞であるから問題ないにしても、スタッフ間のコミュニケーションは母国語以外ではからなければならない。フランスに立地する英語系の病院という変わった状況のもとでのコミュニケーションをご紹介したい。
 アメリカ病院といってもアメリカ人医師は現在3人のみで他はすべてフランス人医師である。看護婦や秘書は文字通りすべてフランス人である。したがって、仏英バイリンガルといっても、院内での共通言語はあくまでフランス語であって、英語は補助手段と言ったほうが正確なようである。
 まず医師間のコミュニケーションから。当院のアメリカ人医師はすべて達者なフランス語をしゃべるので彼らは同国人どうしで話すとき以外はフランス語を使う。筆者はフランス語がまだまだ十分とはいえない状態であることと、正確さを期すための二つの理由で、医師とのコミュニケーションには原則的に英語を使用している。文書に関しても、カルテや紹介状は英語で統一している。ただし処方せんや検査のオーダーは決まり切った言い回しが多いのでフランス語で書く。ただしこちらが英語で文書を送っても、返ってくる返事はまず間違いなくフランス語である。したがってこれらを読解するためにも基礎的なフランス語の知識は必須である。
 外来診療の場合、コメデイカルの中で一番よく接触のあるのは自分の診察室の秘書である。秘書は医師以外の職種ではもっとも英語をしゃべれる率が高く、筆者の秘書も流暢な英語をしゃべる。診察を初めて数ヵ月は英語でしゃべっていたのだが、筆者のフランス語の語彙がやや増えてきた夏頃に、秘書の心づかい(と思うのだが)から英語禁止令が出された。筆者も米国でのレジデント時代の体験から言葉は使わなければ上達しないことはよく解っていたので、こちらも望むところであった。秘書とのコミュニケーションにはそれほど正確さは要求はされないが、国を問わず秘書との会話は院内ゴシップを含めた雑多な院内情報を得る最適な情報源である。この英語禁止令の後フランス語の練習の名目で秘書とのコンタクトが増え、自然にフランス語も上達し、まさに一挙両得であった。
 看護婦は人件費の関係か入院病棟には多くいるが外来では50の診察室で数人しかいない。筆者は現在、入院患者を受け持たないので看護婦との接触はあまりない。しかしときどき他医からの依頼で病棟に出向くときの印象では看護婦はほとんど英語はしゃべれない。これとて看護婦への指示は東西でそれほど差があるわけはなく、フランス語でそれほど不自由はない。
 外国人にとって苦手なものに電話でのコミュニケーションがある。よくある電話は検査室や町の薬局からの、こちらの指示に対する問い合わせである。これらはまずフランス語でないと通じない。数日以上前のことに対してだと記憶が薄れていて少し戸惑うが、当日のものならまず自信を持って対処できる。次に多いのが障害保険会社からの患者の病状に関する問い合わせの電話である。これは保険会社の顧問医からかかってくる。彼(彼女)らはすべて英語ができるのでまったく問題はない。顔の見えない電話でのコミュニケーションのこつは、こちらができるだけ落ち着いて威厳をもってしゃべることである。相手の言っていることが理解できないときは、あたかも相手のしゃべり方が悪いという風な感じで切り返すと、相手はこちらが有名病院の医師であることは分かっているので、向こうの方で気を使って分かりやすい表現に変えてくれる。間違っても慌てふためいて自分の非を佗びたりしないこと。しかしこれは多用すると、こちらの印象を悪くし対外関係をまずくするのであくまで緊急用の手段である。
 さて、以前ご紹介した日本語チームのセクション ジャポン内ではどんなコミュニケーションの形態がとられているのだろうか。日仏混血の看護婦のFさんを除いてすべて日本人のスタッフなので基本的には言語は日本語である。しかしFさんが何かの拍子にフランス語でしゃべりだすとそれに合わせて、数十分間は日本人同志でもフランス語で話しだす。また、たまたま部屋に英語国民が訪ねてきたりすると、皆の会話が自動的に英語に切り替わる。この病院ではこういうことは日常茶飯事なので、このことに何の照れもてらいもない。ごく自然な行為なのである。笑ってしまうのは、Fさん独特の仏日語である。例えば「今日はジュスイトレファテイゲですから、ジュヌブパトラバイエです。」すなわち、今日は大変疲れているので、仕事したくないです。しかし、我々もそれを笑いながら半分冗談で同じような仏日語で会話している。
 外地でのコミュニケーションというと思い出すのは、ペルシャ湾岸危機時の日本医療隊のことである。筆者はこの医療隊の二次隊チームリーダーであったのだが、我々の前に派遣された先遣隊がおこなった議論の一つに、サウジアラビアのクウエート国境近くの軍病院の一病棟すべてを日本医療隊に貸与しその運営を日本側に任せるという話を受諾するか否かということがあった。先遣隊の結論は否であった。理由はコミュニケーションに対する不安につきた。命を預かる仕事だから、外国人スタッフとの意志の疎通に少しでも問題があれば責任が持てないというわけである。確かにこれは正論ではあるが、サウジでは英語しかしゃべれないお雇い外人医師が多数いるし、看護婦などほとんどすべてが英語のみのフィリピン人とインド人である。したがってサウジで日本的な完璧論を主張すること自体がどだいおかしいのである。当時、筆者は英語国で臨床のレジデントを終了した医師が数人リーダーになり、彼らが英語に不自由のない医師と看護婦を使いこなせばこの話はうまくいくと踏んでいた。したがって今回のアメリカ病院での試みは、サウジの時の自らの意見の実証という意味合いも多少ある。
 日本人の完璧主義は長所でもありまた同時に短所でもありうる。私見では、外地ではコミュニケーションにおける完璧主義はマイナス要素にしかならないようである。これまでの筆者の外地でのさまざまな医療の体験から学んだコミュニケーション円滑化の一番の秘訣は、計算された(訓練、体験に裏打ちされた)いいかげんさであると信じている。

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木戸友幸
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